ADHDについて。

ADHDの本を読んでいると、最後には必ず 「薬」 について出てきますねー ( ^^;)

私は、「親が子供にADHDの薬を飲ませる」 ことに、なんとも言えぬ違和感を感じます。(成人が自分の意志で飲むのであれば別ですが。)

誰にでも、自分の特性を活かして自分らしく生きる権利があるはず なんです。

子供が、「自分はADHDだから生きるのが辛い。」 とでも言ったのでしょうか?

だから子供の為に薬を飲ませることにしたのでしょうか?

本当に薬を飲んでどうにかしなければならないほどの深刻な辛さを抱えているのでしょうか?

まだほんの小さな子供が?

 

ADHDのその子を、特性の活かせる環境へ連れて行ってあげてください。

変化を好みチャレンジ精神も旺盛なADHDの子供が、目を輝かせてイキイキできる環境が、きっとあるはず。

「今いる環境に薬を飲ませてでも縛りつける」 以外に、 「特性を活かせる環境に連れていって開放してあげる」 という選択肢も、親にはあるのです。

 

その子自身の人生なんです。

親が、薬で簡単にその子の人生を修正していいはずがありません。

親は、その子がその子らしくイキイキと生きていけるように、できる限りの手助けをしてあげるべきなのではないでしょうか。

これは、あくまで私の考えですが。

 

成人して、自分のことを自分で決めることができるようになって、選択はそれからだと思うんです。

 

薬を飲んで健常者に合わせて生きる道を進むのか、
飲まずにADHDを持ったまま生きる道を進むのか。

 

それは、とっても大きな選択。 そして、本人が決めること。

 

薬を飲みながら、健常者と同じ土俵で戦い続けるのか?
土俵を変えて、あるいは自分で土俵を作って、自分らしく生きていくのか?

 

ADHDを持って生きるのはサバイバルで刺激的☆

1度しかない人生。 ADHDを持ったまま生きるのも、なかなか楽しいのではないでしょうか?

そもそもADHDを持って生まれてきたんですから。

持ったまま生きるほうが、自然なんです。

ADHDのひとの人生は親から見ればヒヤヒヤものでしょうが、でも、その子の人生なんです。

「無難=幸せ」 だなんて方程式はありません。

ADHDのせいでこの子は難ばかりでかわいそう。。。 だなんて親の心配、子供にとっては余計なお世話なんです。

 

私が懸念するのは、子供の頃から薬を飲んでしまうと、成人してから 「ADHDを持って生きる」 という選択が、もうできなくなるんじゃないか?ということ。

これは、「薬の耐性(肉体的依存)」 どうこう、とは別の理由 (精神的依存) で。

本人の選択の自由が、薬によって奪われてしまうのではないか?ということです。

当たり前ですが、ADHDは障害のひとつ。

ADHDを持っていると、非常に社会のなかで生きづらい。

それまで、薬による矯正で見通しのよい平坦な道を歩いてきたダレが、途中から薬をやめて、霧のかかったデコボコ道の方を選んでわざわざ進もうとするだろうか?

(ADHDの人の頭のなかは、よく 「霧がかかったようにモヤッとしている」 などと表現されます。また、退屈してしまうため、どーーーしても平坦な道を長く歩くことができません。

デコボコ道どころか、目の前に山があらわれると、衝動的に登って行ってしまうこともあります。健常者から見ると 「異様な道」 かもしれませんが、でも、薬を飲んだことのないADHDの人にとっては、これが 「普通の道」 なのです。)

 

 

頭の中に霧がかかる?「モヤっと」 の
イメージはこんなだったり...
花
 

 

 

こうしたデコボコ道を歩くには、経験とそれなりの装備が必要。

経験も装備も持ち合わせてなくて、進んでいけるわけがない。

子供の頃から自分の特性と向き合い、何かあったときの対処法を試行錯誤のなかで身につけ、まわりからの奇異の反応もすべて受け止め、たった1つでも 「これだけは負けない」 分野を作る、そうやって身に付けるものこそが、経験と装備。

ADHDの我が子を可哀想に思い、子供が 「傷つくこと」 「悩むこと」 をひたすら回避させようとして親が薬を飲ませてしまうと、子供には、こうした「必要な装備」が身につかなくなってしまう。

子供に薬を飲ませるということは、

 

薬を飲んで健常者に合わせて生きる道を進むのか、
飲まずにADHDを持ったまま生きる道を進むのか。

 

そんなその子の人生の大事な選択を、親がやってしまうということ。

子供が成人してからの選択の自由を、奪ってしまうということ。

だったら、

まだ選択する力のない子供のうちは薬を使わずADHDとして生きさせ、それなりの 「装備」 を身につけさせてあげるのが、産んだ親の責任なのではないでしょうか?

将来、ADHDを持って生きる道へも、自分で選択してまっすぐに進んでいけるように。

 

ADHDに薬による治療は必須ではありません。

昔は薬などなかったわけですし。

現代でも、ADHDの特性を活かして活躍している人は数多くいるわけですし。

 

それにしても、薬・薬… 本でもWebでも、最後には薬攻め…

「薬」 というのは元来、本人が楽になる為のものでしかないのですが、「ADHDの薬」 というのはこれと性質が異なります。

「ADHDの薬」 というのは、

「子供に飲ませると、その親までが楽になってしまう (下手すると、子供そっちのけで親のみが楽になってしまう) 」

という、特異なものなのです。

加えて、学校の先生や障害の相談員も、「これにて一件落着」。 悩みの種が消えて楽になってしまう。

つまり、本人に薬を飲ませることによって、本人を取りまく周りの人達が、揃って楽になってしまうのです。

なんて便利な薬。

それなのに、そういう 「ADHDの薬」 の持つ特異性には触れもせず、「お子さんの為に飲ませましょう。」と言い切る。

すごい違和感!

 

薬を迷っている親たちの心を、ワシづかみにする常套文句があります。それは、

 

「薬でADHDのお子さんの自己肯定感を強め、自信をもてるようにしてあげましょう」

 

という言葉。

私は、こんな言葉で 、よく 「ADHDの乱」 がおきないなと思ってしまう…

だって 「自己肯定感」 て、そんなものじゃないでしょう??

自己肯定感というのは、「自分が自分らしく生きて、それで得た幸せでしか満たされない」のではないでしょうか?

 

「薬でADHDのお子さんの自己肯定感を強め、自信をもてるようにしてあげましょう」

 

こんな馬鹿げた説得、私は 「ない!」 と思います。

薬で猫をかぶせて、「集中して最後まで授業を聞けたね!」 「落ち着いて椅子に座ってご飯を食べられたね!」

そんな風に 「猫」 の部分だけを褒められたって、自己肯定感なんて微塵も満たされないですよ。

 

薬を飲むことで本人が 「生きやすくなる」 というのはあるかもしれませんが、それは自己肯定感とは別の話。

薬は、「薬を飲まないことへの恐れ (素の自分が出てしまう、また元の自分に戻ってしまう、という)」を強める可能性、

自己肯定感なんてメチャクチャにしてしまう可能性すらあると思います。

素の自分を押し殺した結果が、褒められるのですから。

褒められているのは 「自分ではない部分」 であり、自分は自分のままではダメなわけです。

薬によって本人に突きつけられるのは、 素の自分への絶望でしかないのではないでしょうか…

「それを上回る生きやすさ」 をどう捉えるかは人それぞれでしょうが、この 「それを上回る生きやすさ」 の捉え方こそが、成人してからの

 

薬を飲んで健常者に合わせて生きる道を進むのか、
飲まずにADHDを持ったまま生きる道を進むのか。

 

という判断へとつながっていくのではないかと私は思います。

 

「おおかみこどもの雨と雪」という映画、数年前にこの映画を見たとき、私はADHDについて知らなかったのですが、今になってADHDの子供たちの人生の選択の自由を考えたときに、私はこの映画を思い出しました。

オオカミに変身してしまう性質を持って生まれてきた雨と雪という名の姉と弟、そのお母さんのお話です。

(オオカミにならないように飲ませる薬はないので)お母さんは環境を与え、あとは子供たちを見守ることしかできませんでした。

お母さんの苦労は、相当なものでした。

雨と雪は、大人になってから、それぞれが人生の大きな選択をしました。

この映画から伝わってきたのは、お母さんの深い愛情でした。

数年前にこの映画を見たとき、私は母親に感情移入して涙をポロポロ流しました。

ADHDとは関係のない映画なんですが、重なるものがあり、後になってから改めて「いい映画だったなー」と思い出しました。

興味のある方は見てみてください。 歌もすごくいいんですよー(^^)

 

 

 

 

 

薬を飲むことで健常者のように生きることができるようになった 「ある人」 が、今の自分が本当の自分なのか?いや、薬を飲む前の自分が本当の自分だったのか?悩むようになったというのを、本で読んだことがあります。

そのひとは、薬によって 「自分」 の在り処を奪われたのです。

「自分」 の在り処を奪われるだなんて、私だったら、「本当に怖い」 と思う…

まして親によって勝手にそうされたのだとしたら、私だったら絶対に恨みます(。`ω´。)プンスカプン!

 

短所と長所は表裏一体。

ADHDの短所だけ直そう、だなんて都合のいい話。 失うものもあるかもしれないのに。

「もしかしたら、子供の頃に、薬によって失ったものがあったかもしれない」 だなんて、想像するだけでも私だったら辛い。「返してくれ!」 と叫びたい。

 

まあ、私みたいなひとばかりではないとは思いますが (逆に、親に感謝する人もいるかもしれませんし)、でも、薬の使用については、慎重によく考えてから決めたほうが良いのではないかなーとは思います。

もちろん、心のみならず身体への副作用も、よく調べて。

薬は、少なくとも 「当たり前の手段」 ではないと思います。

最終手段… かな?

 

生きやすさ以上に 「自分」 にこだわる内向的なタイプの人は、少なくないと思います。

逆に、外向的なタイプの人であれば、あまり細かいことにはこだわらないのかもしれません。

(「生きやすくなるのならそれでいい」 といった感じかもしれません。)

 

私は、ADHDで会社を経営している人を何人も知っています。

ADHDで綺麗な絵を描いたりデザインをできる人も知っています。

薬で矯正するのではなく、特性を活かせる環境に連れていって開放してあげるという選択肢も、ぜひお子さんの為に考えてみてください。