いただきます[釣りを通して親子で考えたこと]

食事前の 「いただきます」 という言葉、これは誰に向けての言葉でしょうか?


「いただきます」 は、感謝の言葉。
食べ物を調理をしてくれた人や、食べ物を育ててくれた人、に向けての場合もありますし、食べ物そのものに向けての場合もあります。
宗教などによっても違うかもしれませんが、いずれにしても、感謝の言葉です。

先日、こんなことがありました。
友人家族と魚釣りに行ったのですが、ニジマスが2匹釣れました友人家族も2匹。うちも2匹。
釣り堀の人に内蔵・エラを取り除いて氷を一緒に入れてもらい、家に持って帰りました。

帰りの車の中で、「夕ごはん何にする?」 という話になったときに
「ニジマスがあるから、あとは◯◯を買って~」 と夫婦で話していると、「ニジマス、食べるの!?」 と7才のソウが話に割りいってきました。

「食べるよ。 もう死んじゃったから、飼えないんだよ。」 と話しましたが、
「ひどい!かわいそう! あんなにかわいいのに。 僕は絶対に食べない!」 と納得しない様子でした。

いや、ソウは普段から、スーパーで買ってきた魚・豚肉・鶏肉・牛肉、なんでも食べているんですけれど…

「スーパーで買う魚や肉だって、おんなじなんだよ。あれだって命でしょ。 人間は生きるために食べないといけないんだよ。 必要以上に殺したりはしないけど、 食べる分だけ殺して、「ありがとう」 って命に感謝しながら食べるんだよ。」

だいぶ説明しましたが、 生きている状態のニジマスを見ていて、ノドに引っかかっている針を外すときも、
「痛そう。かわいそう…」 と心配そうにニジマスを見ていたソウに、受け入れてはもらえませんでした。

魚釣り

夕ごはんの時、 「うまい!ソウも食べてみ。」 と、ビール片手に嬉しそうにニジマスを食べている主人に、
「うまいって言うな!!」 と目に涙をいっぱいためながら怒るソウ。
それまで、すっかり忘れていたんだけれど、 空の うまいって言うな!」 で、私、自分の子供の頃のことが思い出されて…
私自身も子供の頃、家族でニジマスを釣りに行って、食べるときに「かわいそう、かわいそう」と泣いていたという話を、父から聞いたことがありました。
私は結局、ニジマスを食べたそうですが… そして、「美味しい」 と言ったようです。

自分の中にもボンヤリとその記憶はあって、そのボンヤリが頭に浮かんだ瞬間、
「もういいよ、食べなくていいよ。お母さんも、そういえば同じだったよ。」 と、ソウの肩をギュッと抱き寄せていました。
私も、泣きそうになっていました。ソウの涙を見て…
あまりにも純粋すぎて…

結局、ソウは、刺し身のマグロは美味しそうに食べていましたが、ニジマスに手を付けることはありませんでした。

ソウが釣りに行ったのは、今回が初めてではありませんでした。
1年くらい前に別の釣り堀で、釣っては逃して、というのをやったことがありました。
そこは、リリースすることが前提の釣り堀だったので、他の釣り人もみんなリリースしていました。
そのときの釣りは、今思えば、 「命がどうこう」 と考える機会にはならなかったんですね。
「殺して食べる」 今回、ソウは、生まれて初めてそれを体験したのです。

スーパーで、きれいにパック詰めされたものを買ってきて食べている日常では、「命をいただいている」 ことを、つい忘れがちになります。私たち大人でも。
子供だったら尚更です。「命をいただいている」ことに気付くことすら、難しいかもしれません。頭で分かっているつもりになっていても。

でも現実に、毎日たくさんの生き物を、人間は食べるために殺しているのです。
毎日、スーパーで買ってきた魚・豚肉・鶏肉・牛肉、なんでも食べるソウですから、 ニジマスを口にする日も、そう遠くないと思います。 生きている状態で見た、あの可愛いニジマスのお顔も、いつの間にか忘れていくのだろうと思います。

でも、それでいいんだと思います。 いつか 「うまい!」 と食べるようになったときに、その命に感謝することができれば。
感謝の気持ちを持ち続けること。それが大事なんじゃないかと思います。
それが、「命と、ちゃんと向き合う」ということだから。

「かわいそう」 と思う気持ち、それはきっと、「命をいただくことに重みを感じる気持ち」と一体なんだと思います。
だからソウ、その優しい気持ちを、「かわいそう」 から 「ありがとう。いただきます。」 に変えて、ずっと持ち続けてほしいな。

今回は、スーパーに並んだものだけを食べているとなかなか気づけない、良い体験をソウにさせることができたと思います。親としては、意図してそれに気付かせようとしたわけじゃなかったのだけれど。

元々、命の大切さどうこうを教えるつもりでなく、もっと軽い気持ちで魚釣りに連れて行ったのですが、ソウの 「殺して食べる」 ことへの強い抵抗を目の当たりにして、私自身も、「命をいただきながら日々、生きている」 ことを再認識することとなりました。

話は変わりますが、 私は、小学校で本の読み聞かせのボランティアをやっていて、その仲間から 「この本、いいよ~」と勧められた本があります。
「いわしくん(著者:菅原 たくや)」 という絵本なのですが、私も、読んでみて、たしかに良い本だと感じました。
忙しくて魚釣りなどに連れていけない人も多いと思いますが、こういう絵本をお子さんに読んであげるだけでも、「命」 について一緒に考えるきっかけになるんじゃないかなと思いました。    

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ソウに、「死んじゃったニジマスを食べないでどうするの?捨てるの?」 と聞いてみると、「飾り物にする」 という言葉が返ってきたので、「飾り物にされるより、食べてもらった方が、ニジマスは嬉しいと思うよ。 あの釣り堀に入れられたニジマスは市場から仕入れられてきた魚で、 もし、うちがリリースしたとしても、明日他の誰かに釣られて食べられちゃう運命だったんだよ。食べてあげたら、あのニジマスは、ソウの中で肉や血になってずっと生き続けるんだけど、 飾り物にされたら、あのニジマスは、自分は何のために殺されたの?って悲しくなるかもしれないよ。」と話したんです。

その時に、私の頭のなかには、この 「いわしくん」 の本の内容がイメージとしてあったのですが、ソウは私の話に 「確かに」 とうなづきました。
「食べる」 ことへの抵抗が取れたわけではなかったかもしれないけれど、少なくとも「飾り物にする」のはチョット違うかな、と自分で思ったのだと思います。
「飾り物にする」 という言葉は、その後、聞いていません。

「いわしくん」、本の詳しい内容まではご紹介しませんが、そういうこと (肉や血になって食べた人の体の中でずっと生き続ける) を伝えられる本です。
こういう考え方(肉や血になって生き続ける) って、「食べる側のエゴなんじゃない?自分に都合よく考えすぎてない?」 って思う人もいると思うんです。
でも私、「もし自分がイワシだったら」 と考えてみて…
自分だったら、やっぱり、殺される運命なら「食べてもらいたい」って思ったんです。殺される運命なら ですよ。
だから、良い本だと思いました。

 (追記:2023/09/30)

少し話はズレますが、私、動物の剥製って、子供の頃から好きじゃなかったんです。今もですが…
剥製を見ると、悲しい気持ちになってしまうのです。 わかる人いますか?

実家の和室にキジの剥製があるのですが、あの剥製が、もし、食べるために捕らえたキジのだったならよいのだけれど、そうでないなら可哀そうだなと、子供の頃からよく思っていました。

そういうような考え方のベースがあって、私自身は、「もし自分がイワシだったら」殺される運命なら「食べてもらいたい」と思うんだと思います。

もっといえば、布団に使われている羽毛も、コートに使われている毛皮も、財布に使われている牛皮も、そうです。
彼らの肉はどうなったのでしょうか? 私にとって、それは、どうでもよいことではなく気になることです。
羽毛・毛皮・皮などが、食べるために捕らえられた動物の副産物であったなら、捨てる部分さえも余すことなく利用する、命を無駄にしない、という意味で良いことだと思えるのですが、もし、そうでないのだとしたら…
考えはじめると、悲しみだったり怒りだったり、そういう感情にとらわれてしまうのです(_ _)

食べる目的で命をいただくことは、人間も動物ですから仕方のないことだとして、装飾や鑑賞する目的で命をいただくことは、間違っているのではないでしょうか??
それとも、個々人の考え方の問題であって、自由で許されたことなのでしょうか?

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