Facebookで 「母親を失い心を閉ざした少年を救った先生」 というタイトルの動画へのリンクがありました。

動画を見て、この先生、素晴らしいなと思いました。動画はもちろん再現ですが、実話だそうです。

 

 

「母親を失い心を閉ざした少年を救った先生」
https://www.youtube.com/watch?v=Wo1mMML1MOE

動画

 

 

実はちょうど同じ日に、Facebookで  「ゴルゴ松本が少年院で行った漢字の授業」 という動画へのリンクがあり、そちらを先に見ていたので、両方の動画の内容が自分の中でリンクしたんですが、「あぁーまさに、先生の一助がこの子の [辛] を [幸] に変えたんだなー」と思いました。

 

[辛] と [幸]は、ほんとうに不思議なほど形が似ています。違うところは、横線ひとつですね。

[幸]でも、何かひとつ欠けただけで、ガタガタと崩れるように、そして何もかもが終わってしまったかのように、[辛] になってしまったり、逆に、誰かの小さな一助によって、他の誰かの[辛]が、パッとひらけたように[幸]に変わったりすることもあるんだと思います。小さな一助、横線ひとつで。

 

もし目の前に何らかの [辛] を抱えた子がいたとして、手を差し伸べてあげようかどうしようか、ちょっと迷う…

今、手を差し伸べることはできるかもしれないけれど、ずっと面倒を見続けることはできないんだから、自分が中途半端に手を差し伸べるべきではないんじゃないか、なんて考えてしまうかもしれない。

その子の中に潜む、あまりに大きな闇を前にして、「そんなに簡単に解決する問題ではない」と、ハナから諦めてしまうかもしれない。

手を差し伸べることで、自分自身が周りからどう思われるか? 自分自身が被害を被ることになったりしないか? 保身も考えるかもしれない。

「なにも自分がしなくても、他の誰かが…」と、都合のよい逃げ道を自分で作ってしまったりとか…

 

でも、もし通りすがりだったとしても、この動画の先生のように「クラスで1年しかもたない子」だったとしても、誰かがその子のために手を差し伸べてあげたとしたら、もしかするとその子は、その小さな一助を希望と支えにしながら、その先の人生、前を向いて歩いていけるかもしれない。

与えられることに慣れている人にとっては、横線ひとつくらい貰ったところで、「何てことない」ものなのかもしれないけれど、そうでない人にとっては、その横線ひとつが、涙が溢れるほど嬉しかったり、運命を変えるきっかけになったり、するかもしれない。

自分の感覚で考えるのではなくて、あくまでその子の立場になって、今自分が迷っている一助の重みを考えてみたら、もしかすると、その意義に気づけるかもしれない。

 

家庭内での虐待や学校内での苛めが問題になっていますが、最悪の事態になってから、

「虐待されていることには(苛められていることには)、気づいていた」

などと周囲の人達が口にするのを、TVなどで目にすると、

「どうして、誰もあの子を助けられなかったんだろう…」

と悲しく思います。

見て見ぬふり…

自分の一助がその子にとって大きな助けになるかもしれないと、誰も思わなかったのか…

「無視」もひとつの苛めの形。

子どもの心から希望を奪う。

 

誰かの[辛] を[幸]に変えることは、そうそうできることではないのかもしれませんが、

(助けるのには勇気が要るし、それに、全ての助けが必ずその子を[幸]に変えるとは限らないから)

こういう動画のようなことも実際にあるんだな、素晴らしいな、と思い、涙ながらに見ました。

自分もなにかの時、手を差し伸べてあげられるようでありたい。

こういうことは、言うのは簡単でも、実はその場になると、思いのほか勇気が必要だったりするのかもしれないけれど。

 

因みに、 「ゴルゴ松本が少年院で行った漢字の授業」 の方も、涙ながらに最後まで見ました。

1日でyoutubeでどんだけ泣くんじゃ。

いい動画です☆

 

※ ゴルゴ松本さんの動画は、現在、削除されています。残念ですが、著作権の問題みたい。機会があれば、どこかでご覧になってみてくださいネ。