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[辛]を[幸]は、不思議なほど形が似ています。違うところは、[ 横線ひとつ ]ですね。(ゴルゴ松本さんの動画より) [幸]でも、何かが一つ欠けただけで、ガタガタと崩れるように、そして何もかもが終わってしまったかのように、[辛]になってしまったり、逆に、誰かの小さな一助によって、他の誰かの[辛]が、パッとひらけたように[幸]に変わったりすることもあるんだと思います。 小さな一助、横線ひとつで。 もし目の前に何らかの[辛]を抱えた子がいたとして、手を差し伸べてあげようかどうしようか、ちょっと迷う… いまは手を差し伸べることができても、ずっと面倒を見続けることはできないんだから、中途半端に自分が手を差し伸べるのは無責任ではないか... なんて、逆に深く考えたうえで避けようという気持ちになることもあるかもしれない。 その子の中に潜む、あまりに大きな闇を前にして、「そんなに簡単に解決する問題ではないだろう」と、ハナから諦めてしまうかもしれない。 手を差し伸べることで、自分自身が周りからどう思われるか? 自分自身が被害を被ることになったりしないか? 保身も考えるかもしれない。 「なにも自分がしなくても、他の誰かが...」と、都合のよい逃げ道を自分で作ってしまったりとか… でも、もし通りすがりだったとしても、この動画の先生のように「クラスで1年しかもたない子」だったとしても、誰かがその子のために手を差し伸べてあげたとしたら、もしかするとその子は、その小さな一助を希望と支えにしながら、その先の人生、前を向いて歩いていけるかもしれない。 与えられることに慣れている人にとっては、[ 横線ひとつ ]くらい貰ったところで、何てことないものなのかもしれないけれど、そうでない人にとっては、その[ 横線ひとつ ]が、涙が溢れるほど嬉しかったり、運命を変えるきっかけになったり、するかもしれない。 自分の感覚で考えるのではなくて、あくまでその子の立場になって、今自分が迷っている一助の重みを考えてみたら、もしかすると、その意義に気づけるかもしれない。 いつの時代でも、家庭内での虐待や学校内での苛めの問題などが取りざたされていますが、 最悪の事態になってから、 「虐待されていることには(苛められていることには)、気づいていた」 などと周囲の人達が平然と口にするのをTVなどで目にすると、愕然とし、 「どうして、誰もあの子を助けられなかったんだろう…」 と悲しく思います。 見て見ぬふり… 自分の一助がその子の助けになるかもしれないと、誰も思わなかったのか... 「無視」もひとつの苛めの形。 子どもの心から希望を奪う。 誰かの[辛]を[幸]に変えることは、そうそうできることではないのかもしれませんが、 ( 助けるのには勇気が要るし、それに、全ての助けが必ずその子を[幸]に変えるとは限らないから ) こういう動画のようなことも実際にあるんだな、この先生の一助は素晴らしかったなと思い、心を揺さぶられました(T_T) 自分もなにかの時、手を差し伸べてあげられるようでありたい。 こういうことは、言うのは簡単でも、実際にその場になると、思いのほか勇気が必要だったりするのかもしれないけれど。 心の中に覚悟をもっていたい。